ふと、こんなことを考えた。
思考や感情を表す言葉って、
いったいどこから始まったんだろう。
狩猟時代を想像すると、
獲物や肉のように目に見えるものは、
みんなの関心が高く、共通の言葉として定義されやすかったはず。
でも、
不安 怖さ 迷い 考えている感じ
こうした目に見えないものは、
どうやって言葉として共有されていったのだろうか。
感情や思考の言葉は、最初から定義されていなかった
結論から言うと、
感情や思考を表す言葉は、最初から
「心の中」を説明するために生まれたわけではない。
はじめに共有されていたのは、
身体の反応 行動 その場の状況
だった。
たとえば、
震える 後ずさる 叫ぶ
こうした誰の目にも見える反応が、
集団の中で何度も観察されていた。
「なぜ」は、理由ではなく“予測”のための言葉だった
私たちは今、
「なぜ?」=原因を説明する言葉
だと考えがちだ。
けれど、もともとの「なぜ」に近い役割は、
次に何が起きるかを予測するための手がかり
だったと考えられている。
ある行動が出たあと、
高い確率で同じ結果が起きる。
その繰り返しから、
この状態の次には、こうなる あの感じのときは、危険が近い
という行動の型が共有されていった。
指差し+音が、言葉のはじまりだった
ここで重要なのが、
**指差し+音(声)**という行為。
これは単なるジェスチャーではなく、
同じものに注意を向ける 状況を共有する
ための合図だった。
「私はそれを見ている」
「あなたもそれを見ている」
「それを一緒に見ていると、お互いがわかっている」
この状態が成立して、
はじめて意味が通じる。
言葉は、
**正確さよりも「だいたい通じること」**が先だった。
感情の言葉は「まとめラベル」として生まれた
毎回すべてを説明するのは大変なので、
あの状態 ああいう感じ
というざっくりしたまとめが必要になる。
それが次第に、
怖い 怒っている 疲れている
といった言葉として定着していった。
ここで大切なのは、
これらの言葉が
原因の説明
ではなく
予測のショートカット
として使われていた、という点。
「なぜ?」が本当に必要になったのは、ズレが生まれたとき
同じ行動でも、
結果が違うことが出てくる。
そのとき初めて、
同じなのに、どうして?
という問いが生まれる。
「なぜ」は、
誰かを責めるための言葉ではなく、
集団のズレを修正するための道具
として育っていった。
だから、うまく言葉にできなくていい
この流れから見えてくるのは、
感情は、言葉より先にある 言葉は、あとから整えられる
ということ。
今でも私たちは、
なんとなくモヤっとする うまく説明できない
そんな状態になる。
でもそれは、
まだ「指差し+音」の段階なだけ。
無理に言葉にしなくてもいい時間が、
あっていい。
言葉になる前の感覚を、急かさなくていい
言葉は、
最初から完璧だったわけじゃない。
曖昧で、雑で、
それでも「通じた」から残ってきた。
だから、
うまく言えない自分を責めなくていい
言葉になる前の感覚を、大事にしていい
それもまた、
穏やかに過ごすための一つのコツだと思う。
